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原発と震災について語ることー「対岸の表現者」の自覚


京都で「原発絵本プロジェクト」として展示をしてきて痛感したこと。

それは、結局わたしたちは「対岸の表現者」でしかない、ということだ。

それでもなお、この問題を題材に表現しようとするかぎり、
わたしたちは「居かた」を決めなければならない。

対岸に居る、直接の被災者の方々にとって、
恥ずかしくない「振る舞いかた」を決めなければならない。

被害者のいる社会的事件を表現するということは、そういうことだ。

===



京都での原発絵本プロジェクトのイベントの最中、その場にいた人間の発言をめぐって、論争が巻き起こった。

その時、来場者の中に、福島と岩手出身のご夫婦がいて、
男性が、
「そもそも、この絵本は、あの事故がなかったら生まれなかったものでしょう?」という一言をおっしゃった。

私達を責めるつもりで発された言葉では全くない。

(前後の文脈を詳細に書かないと、この方の述べた言葉の真意がこのブログ上では正確には伝わり切らないのだが、この方の真摯な発言のおかげで、その場の論争がより深まり、心に残るものになったので、私はこのご夫婦にとても感謝しているという事だけは記しておく。)

しかし、彼のこの一言によって、
「このプロジェクトを通じて発表される作品は、原発事故を元に(さらに悪い言い方をすればネタに)して、制作されたものである」
という自明の事実が、あらためて胸に深く突き刺さった。

その事実は、どこまで行っても、壊れることのない堅い壁のように、わたしたち、そしてこの事件を元に何かを表現しようとする人たちの前に、絶対的に立ちはだかる。



===

絵本というのは、やわらかくて肌触りがいいメディアだけど、そのぶん、うわついてミーハーなメディアとも取られかねない。

言い換えると、事件をネタ(食い物)にしているように、見えかねない。

3.11以降、地震と原発事故に関する本は山ほど出ている。
事実を羅列したもの以外にも、タレントや著名人が、震災以降の生き方やメンタリティについて、心の豊かさみたいなのに結びつけてコメントを述べた、ゆるくふわっとした手触りの本を多く書店でみかける。

正直、なんでお前が書くねん、という感じの本もある。

私もそうかもしれない。

===



なぜ私がこのプロジェクトをやるのか。

根本にあるのは、
25年間生まれ育った地元・東京が、立派な放射能汚染区域になってしまった悲しみを、何らかの形で吐露したいという、極めて感情的な動機にすぎない。

東京が好き。

多くの人にとっては「来る場所」でも、私にとってはふるさとだ。

そこが、安心して住める場所ではなくなってしまった。
堅牢な大都市が、一気に日本で一番脆弱な街になってしまった。

一体、だれのせいなんだ。

この、「なんでこうなっちゃったんだ?」という憤りを表現したくて、絵本という媒体に、ぶつけている。

「騒音おばさん」のごとき、さみしさの吐露。



物干し場という舞台から、ふとん叩きと大声というインストゥルメントを使いただただ自分のさみしさを近所にむかって爆発的に表現していた、一時期テレビで話題だったあの彼女。
あんな熱心な表現者はそうはいまい。

あの悪魔的なパフォーマンスと、私がいま、原発絵本プロジェクトで、一枚一枚のパネルの上でやっていることは、エッセンス的には一緒である。

違うのは、騒音おばさんにとって、苦しみは自分ごとだったけど、私は、そうは言ってもまだ、原発事故とはやや対岸の存在であるということだ。

私の感じる、東京を傷つけられた悲しみは、フクシマの故郷を失った人の悲しみに比べたら、ペコちゃんキャンディのように、はかなく薄い味でしかないはずだ。



===

けっきょく被災した人以外は、「対岸の表現者」でしかない。

芸術でも文学でもなんでも、この事故を表現するということはそういうことだ。

被害者への共感がどれだけ強くても、その強さは他人には証明できない。
それがどう受け取られるか(売名行為なのか、真摯な共感なのか)は、周りにゆだねられる。

けっきょく、当事者以外の表現者は対岸の絵描きなのだ。

どこまで行っても。

対岸の火事に飛び込んで絵をかけるやつはいるか。

いない。

熱さを感じている気になるしかない。

自分の知っている熱さを想像しながら、外側から描くしかない。

それをするということは、
その事実と、被災した方々から向けられる目を自覚した上で、それでもなお、
表現者で在り続ける自分の「居かた」を決めることなのだ。



===

けっきょくは対岸の表現者でしかありません。

それでも、私にやらせてください、と宣言すること。

そしてその理由を自分の中でしっかりと見つめて、他人にできるかぎりの精度で伝えられるくらい、深く持たなければいけない。

どんなその理由がしょぼくても、情けなくても、こういう理由で、わたしはこれを表現します、という強い覚悟を持たないと、見る人には脆弱さが伝わってしまう。

耳障りのいいことは誰でも言える。でも、そこに覚悟がない表現は、表現ではない。

どんなに見た目がゆるふわでも、
芯だけは腹くくって、あり方を定めるしかない。

そうじゃないと、ただの恥ずかしい人だ。

事故について、どんな媒体にせよ、ブログにせよ、Twitterにせよ、表現するというのはそういうことなのだろう。

そんなことを考えたイベントだった。

原発絵本プロジェクトを始めた理由。

原発


原発絵本プロジェクト この国にひかりがみちるまで の京都での展示が決まりました。





なぜ絵本なのか


このプロジェクトは、震災から1ヶ月後、突如わたしのあたまんなかで始まったプロジェクトです。



地震の直後、青い空に白い雲とゆう、あの平和!そのものの福島第一の建屋の模様の亀裂から、イラストの白い雲ではない、ものっそい邪悪な色した煙がもくもくと上がっている光景を見て以来、

原発がどういう仕組で動いてて、なんで事故って、これからどんな被害が起きるのか、についての情報は、あの建屋からはきだされる真っ黒な雲のようにあっというまにインターネット中を席巻し、

どうしよもない不安と怖れが放射能よりさきに心ん中を汚染し、無知なわたしはまず原発とはなんなのか、というところから始まって、ああ、なんでこんなことが起きてるのか、と誰に問いてもわからん疑問が浮かぶのだけど、ネット上のおびただしい情報の中にはひとつも核心にせまる答えがない。

テレビやネットでは、燃え上がる原子炉建屋の悪魔的な絵図が大写しにされ、それでもなお、どす黒い煙の合間に見える、ブルーとホワイトの脳天気なコントラストが、どこかでまだ間抜けな感じを残していて、それは、東電の今までの呆れるほどの脳天気さと、それが引き起こした事態の深刻さのギャップを象徴するような絵面で、同時に、こうなる前は、この恐ろしい機械は東電が意図していたとおり本当に夢の装置として多くの人びとに受け入れられ、福島の人びとに見守られていたんだな、ということも分かるわけで。



なにをしていても、「原発」という単語が、背骨のあたりにこびりついて離れない。



そんな状況で、どちらの陣地に踏み込むべきかはわからないけれど、この問題とは自分なりに向き合わなければいけないような気がする。



そう思っていた私の胸に、ぽん、と答えがでてきたのが、震災からようやく1ヶ月後のことでした。



「“気にするか” “気にしないか”、それはもはや決断だ」


少し前、尊敬する思慮深い方に

「放射線を“気にするか” “気にしないか”、それはもはや決断だ。」と言われたのがとても印象に残っているのですが、

その言葉通り、これからの未来を生きるわたしたちには、漫然と生きることはもはや許されないのだな、とつくづく感じます。

だったら、これから各人が、原発問題をどう受け止め、どう行動するか、を決断する材料のひとつとして、「これまでの歴史」を知ることは、有用なのではないか。

ネット上やら市民メディア上やらで、原発が安全か安全じゃないかを怖い顔で議論し、これからの被害など、東電の落ち度などを声高に叫ぶこともできるけど、それ以外の方法で、わたしはこの「原発」というものと、わたしたちとの関わりの歴史を、表現することもできるのではないか?

と思い、「フクシマ以前のこの国の原発の歴史」を、絵本という形で表現することを考えたのでした。





原発はすぐには止まらないけれど


それは、なんの倫理観でも正義感でも、なにかを啓発したいという意志でもなく、
べつにこれを作ったからと言って、原発反対派が増えるわけでもないし、安全情報をご提供できるわけでもない、

6万人の原発反対のデモも新聞やテレビは報じないけど、
数年後の原発再開に向けて、福島の原子炉は既に原発メーカーへ発注済みであるという、反対派が仰天するような事実はそれ以上に報じられないわけで。

どうやったってすでにある仕組みの中での原発再推進の流れは止められない。

そんな絶望の中で、これを作るのになんの意味があるのか、という苦しさもあるのですが、
けれど、「これまでの原発」の姿を記憶し留めておくことは、これから子どもを持つはずの私たちにとって、必要なことなのではないか?と、
そう思ったんです。

これから先、生まれてくる小さい子たちは、日本の一部に住めなくなっている土地があることを不思議に思うだろうし、
なぜ「ヒロシマ」「ナガサキ」に並んで福島が「フクシマ」とカタカナ表記されるのかも疑問だろうし、
大人たちがこんなに食の安全について神経質になっているのかもわからないだろうし、
なぜ自分たちが甲状腺ガンになっているのかもわからないだろう。

そうしたときに、「これまで原発というものを受け入れてきた、この国の歴史」をやさしく示すものがあるというのは、これから先の未来のだれかにとっては有用かもしれん。

たぶん、小さい頃、NHKのアニメで見た「野坂昭如 戦争童話集」の影響も確実にある。



アニメーションの中で、やさしい目をしたクジラが軍艦に砲撃されて、青いクレヨンの海に、真っ赤なクレヨンの血をどばとまき散らして死ぬシーンは、まるで自分の頭も、青と赤の砲弾で撃ちぬかれたような衝撃で、きっとそれが自分のどこかに焼き付いていたのだろうと思います。



素敵な場所です、あいたるがぼん


すぐに、カワイイけれどなんだか人を不安にさせる絵をお描きになるグラフィックデザイナーのHoxai.graphicsさんが参加してくださり、2人チームでこのプロジェクトは始まり、

しかし、始めてみれば、この国の複雑な原発の歴史を簡単な物語にするのはたいへんややこしく、また、ストーリーにしてみれば実際は地味なもので、一体だれがこれを読んでくれるのか不安に思ったりもしましたが、

金魚カフェさんでの展示、それをきっかけに、イベントなど人が集まる場を作れること自体が私は嬉しい。

そんな場をもっと作って行けたらいいな、という事で、今度は京都のカフェ「アイタル・ガボン」様にて展示をさせていただきます。

見知らぬ土地にて心細い中、偶然にも、立地がよく、食べものを注文すれば完全ハズレなしの、町家を改装したとってもすてきな人気急上昇中のカフェにめぐり合い、
しかも、店主のお二人のできるかぎりのサポートをしますという温かいお言葉と姿勢、

とてもありがたいことだよね。

果たして関西での原発についての関心度合いはどれほどなのか?等、不明点も多く、それゆえ不安もありますが、これを機に少しでも関西の方々の考えを知れたら、など、思っている次第です。

一年前までニートだった自分がこんなことをしているなんて、というそちらの驚きもありますが、最終的に出版までなんとかこぎつけたいとマジに思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。

展示の詳細は以下です。

■Info■

河原町丸太町のカフェ「ItalGabon」にて



10月23日(日)~11月6日(日)
ItalGabon アイタルガボン

京都市上京区中町通丸太町上ル俵屋町435
phone : 075-255-9053
11:30 open ~ 22:00 close 不定休
不定休のため、営業予定を コチラ からご確認いただいてからお越しください。
ItalGabon(あいたるがぼん)のtwitter

レビュー:映画「チェルノブイリ・ハート」

映画「チェルノブイリ・ハート」を見た。

きつかった。

「10万年後の安全」よりも10倍くらいきつい。



なぜかというと、これがホラー映画でもパニック映画でもなく、
本物の、今、この瞬間に、同じ地球上のベラルーシで起こっている事を写したドキュメンタリーで、
しかも、25年後の福島に、確実に起きるであろうことだからだ。




「ハイ、あなたたちの未来はこんなかんじですよ」って、
こんなにも恐ろしい、血肉色した鮮やかすぎる未来を目の前に突きつけられて、
平気でいられる人がどれだけいるんだろう。






このドキュメンタリーは、国土の97%が放射能汚染地域であるベラルーシで、放射能被害にあった子供たちの様子を写したもの。


なので、映画の舞台はほぼすべて、病院である。




監督は、甲状腺ガンの治療現場から始まり、精神病院や小児病棟を次々と回ってゆく。




私は、放射能が引き起こす病気は、甲状腺ガンと白血病くらいしか知らなかった。


けれど、その認識がずぶずぶに甘いことを、この映画で思い知らされた。


原発から80km圏内で、事故後に生まれた子どもの多くが、先天的に脳性麻痺や脊髄損傷、水頭症、悪性腫瘍を患っている。


悪性腫瘍で、自分の身体と同じくらいに、ぱんぱんに膨れあがったお腹をひきずって歩く子ども、
足と手が壊死して、薬を塗ると痛みで泣き叫ぶ子ども、
水頭症で、あたまなのか顔なのか分からないほど頭部が膨らんだ子ども、
生まれた時から発育障害で、4歳なのに4ヶ月の赤ちゃんくらいの体躯しかない子ども。


そんな子供たちで、施設はあふれている。


変形し、皮膚の色が変わった患部が、舐めるようになんどもなんどもスクリーンに大写しにされる。
その度に、自分の認識の甘さを思い知らされる。




それだけでは終わらない。


一番ショックな事実を突きつけるためか、作中になんどもなんども登場するのは、


「遺棄児童院」


つまり、障害を抱えて生まれ、親が治療費を払えずに捨てられた子供たちの集まる施設が、チェルノブイリ近郊にはいくつもあるのだ。


そりゃそうだよ、事故のせいで住んでいた家と仕事を失って、
生まれてきた子どもは月に何百ドルとかかる重度の障害を抱え、治る見込みも国の補助もなく、月収100ドル以下で、
それでも育て続けるなんて、誰が可能だと思う?




親のせいじゃない。これは、国が生んだ捨て子だ。


生まれる前から、国によって、原発によって未来を破棄された子ども。


これが、25年後のフクシマに起こりえないなんて、誰が言えるだろう。


施設の人の、
「この子の親は見つかっていません。治療法もありません。
この子の未来は誰にも分かりません。」
という言葉が突き刺さる。



さらにショッキングな事実は続く。

原発から80kmのゴメリ市の産院での、健常児の出生率は15%~20%


これ聞いたとき、数字が逆なのかと思った。
てっきり翻訳ミスかと。


そうじゃなかった。


障害児の出生率が15%~20% ではなく。


健常児の出生率が15%~20%。


信じられる?


多くの子どもは水頭症、脳性麻痺など先天性の障害を持って生まれてくる。


アメリカでは、水頭症の乳児は生まれた時に注射器で水を抜いてもらえるけれど、ここはベラルーシ。医者の月収が100ドル以下の国で、そんな高額の手術をほぼ全員の水頭症児に施すなんて不可能だ。





原発から80km圏内って言ったら、フクシマでいうとこんな感じ(googleMAP)

北茨城やいわきももちろん、宮城の白石、那須塩原や会津若松ももう少しで届きそう。


この範囲の産院で、健常児の出生率がたったの15%。




ベラルーシで起きていることが、こんなにも克明に分かっているにも関わらず、
なんで国のトップは、フクシマの子供たちを避難させないんだろう?






何が起こるか分からないから、じゃなく
何が起こるか、こんなにも、こんなにも鮮明に分かっているのに、
なんで、なんでほっとくの?




見えてるじゃん、もう見えてるじゃん。






この映像は、CGでも、ホラー映画の特殊メイクでもなんでもないよ。


アメリカの、映像技術を駆使したバーチャル・リアリティーでもないよ。


精神病院に詰め込まれた子どもとか、頭なのか顔なのかもうよくわかんなくなってる水頭症児とか、足が枯れ木みたいになった、ぼろぼろの子どもとか、


こんなにリアルに見えてるのに、なんでそれでも安心だとか、言えるわけ?


第一・第二原発から、広島原爆の136個分のセシウムが放出されたって発表しときながら、なんでそれでも
「チェルノブイリとフクシマは違う」って言えるの?


今、フクシマにいる子供たちと、これから生まれてくる子供たちの未来がわかっていて、なんでそれでも避難させずに東電を救済するのか、わからないよ。


今、東電ではなくて、フクシマの子供たちと若者を避難させるほうが、国の生存戦略上有効だって、なんで政府の偉い人達がわからないのかも、全く理解出来ないよ。




もしこのまま、避難措置も取らず、十分な補償もせずに、原発から80km圏内の人たちをほったらかしにしたとしたら、


きっと、25年後、これと同じ映像を撮りに、各国からフクシマに取材クルーが押し寄せるだろう。


きっとその時、彼らは思うはずだ。


「今から25年前にも、これと同じ映像を撮ったフィルムがあったのに、なんで日本は学ばなかったんだ?」って。


そうなってしまいそうな事が、私は悲しい。


このフィルムの中の映像と地続きの現実は、もう始まってる。






今の放射線量が◯ミリシーベルトとか、セシウムが☓ベクレル検出されたとか、
まったくリアルでない、数字の情報ばかりが流れてきて、


どれが本当の情報かも分からず、ぼうっとtwitterとネットニュースを眺めている今、


遠く離れた国の映像なのに、
何年も先の未来予測でしかないはずのに、
一番リアルな、フクシマに関する情報だと、私は思う。






明日は水曜でレディースデーだし、あさっては1日で映画の日なので、
何見ようかと迷っている方はぜひ見てください。
1時間でサックリ見れます。でも、ショックはずっと続きます。
ショックどころかこの現実は25年後まで続きます。
それが分かってしまう、本当に苦しい、でも、“分からせてくれる”映画です。






こちらも合わせてどうぞ:レビュー:映画「10万年後の安全」


参考:ベラルーシの若者・児童の、甲状腺ガンについての報告







空間編集の愉悦ーシェアハウスの面白さと、「まれびとハウス」の今後

今月号の「広告」のテーマが「シェア」だった。





まれびとハウスってなんなのさ

田端のシェアハウス、「まれびとハウス」に住んで1年弱になる。


まれびとハウスは「ぷらっと寄れるプラットフォーム」をコンセプトに去年の4月にオープンした。


イベントルームがあり、そこで開催される講演会やワークショップやパーティーを目当てに人が行き来する、そんな家。


初期の頃は、イベントを多数開催していたため、一週間に2~30人のお客さんが来ていた。
一年間で、のべ2000人以上ものお客さんが来たはずだ。


そんなまれびとハウスを、何かに例えるとしたら、と、
よくお客さんからも、自分たちでも挙げていたのが「寺」。


寺のように、普段の所属や貴賎に依らず、老いも若きも、すべての人に開かれている空間。


行けば、何を糧に生活してるのかよくわからない、ニートみたいな人がいて、禅問答やら講話が始まる。


また、寺といっても、寺自体を目的にして来訪する客人ばかりではなく、


「あそこに行けば◯◯さんがいるから」だったり、
「まれびとで会いましょう」だったり、


既存の人間関係にとって、ちょうどいい収まりどころとして、まれびとハウスを使用してくれる人たちが多かった。

人々がまれびとハウスを回遊するのではなく、まれびとハウスが人間関係の間を回遊する。


そんな感じで、まれびとハウスは、民俗学者・折口信夫の用語で、外来からの来訪者、ようするにお客さんを指す「稀人(まれびと)」のための家として機能していた。


自分とまれびとハウスの関わりー「崩れ」そのものとして



「まれびとハウス」は当初、住人の6人全員、学歴も高いし、なんか社会的にきちっとした人が多かった。
6人中2人が東大生と言うこともあり、東大生のお客さんが多くて、開催されるイベントもわりとIQ高めっていうか、お勉強的な内容のものが多くて、それはそれでさわやかで知的でまったく文句付け所なんか無いんだけど、
ニートになったばかりの自分としては、
「なんっか好かんたらしいなー、なんかもっと・・・ブチぎれてるようなコンテンツが欲しいなぁ」
と常々思っていた。


それで、風俗とキャバクラのスカウトをやっている友人に頼んでナンパ講座を開いてもらったりした。
健全なコンテンツばかりのところに不健全なものをぶちこむ、社会的にはダメだったり汚らしいと思われていたり、非効率だと思われてるものをぶちこむ、その快感があった。


IQ高い人ばっかりが住んでるからって、IQ高いばっかりのコンテンツやっててもあんまり面白くないかな、って。


社会的にはちゃんとしてても、中身がちゃんとしてない人、邪悪な人、狂っている人もいる。
反対に、社会的にはだめでも、その狂いの渦の中に、一瞬、きらめくものがあって、それがその人の美しさを作っているような人がいる。
他にも、だめなんだけどなんかすごくいい人とか、ぶっとんでる人とか、ようするにソーシャルであることを盾に内面を守ってる人より、その人の内面自体がコンテンツ、みたいな人が来るような家になればいい、と思っていた。(何様、って感じですいません)


空間のほころびでいたい。
何かを崩す、その土砂音が、かえって奥底の快感をひっかくこともある。
そういう感じで、自分も「崩れ」そのものとして、わざとまれびとハウスの機能美を崩すポジションにいようとした事は確か。


空間編集の面白さー「自分の媒体を持つ」ということ


で、ここからが自分が思う、シェアハウスの面白さについて。

シェアハウスの一番の面白さは「家を編集できる」ということ。もちろんひとりで住んでいたってできるんだけど、多くの人と暮らすことで、編集の振れ幅が大きくなる。

家を一軒借りるって、白紙の媒体を持つのと同じ。
そこの、コンセプトを決めて、コンテンツを決めて、コンテンツの作り手を決めて・・・。という感じ。


ひとり暮らしだったら、家のコンセプトはまずまちがいなく「自分にとって最も快適な家」になるだろう。
けど、複数人と住んでいると、それではすまなくなる。
そのおかげで、コンセプトに余白ができる。
それで、自分にとっても、他人にとっても面白い家ができあがってくる。

もちろん住んでいる住人自体もコンテンツ。


ひとりで作るわけじゃないから、他人の持っているコンテンツとかちあったりして、思ってもみなかった創発が起きる。

それが、面白い。

再編集もアリ


結局まれびとも一年経って、住んでる人がおどろくべきスピードで入れ替わって、最初のメンバーは全員一旦家をでた。

当初の住人に合わせて作った「まれびと(客人)のための家」というコンセプトも、現在の住人には合わなくなっちゃった。


例えるなら最初ラーメン屋で始めて、仕入れの都合でメニューの9割がカレーになっちゃったのに、未だラーメン屋の看板出してるみたいな気持ち悪さがある。


そうなったら、私はコンセプトを再び変えて、リビルドしたらいいと思う。


家だって、一度決めたコンセプトをかたくなに守るんじゃなくて、あわなくなってきたなと思ったらガンガン編集方針変えて、リニューアルしたらいいんじゃない。


ここからは例えばの話だけど、
今のまれびとハウスの名前を変えるとしたら、ちょっと安易だけど思いつくのは「たびびとハウス」だなー。


海外から友人づたいにまれびとを知って滞在するお客さんがずいぶん増えたし、1ヶ月、2ヶ月の超短期スパンで滞在して、出て行く人も増えた。
地方(特に京都などの関西方面)からやってきて滞在してゆくお客さんも多い。
下手したら住人より滞在者のほうが多い日もあるほど。
住んでいる人も、正社員ももちろんいるが多くがフリーランサー。イベントルームは日中、シェアオフィスみたいな使われ方をしている。


かなり広くて快適なシェアオフィスだと思う。森じゅんや(@JUNYAmori)を始めWEB系の仕事している人が多いので書籍やデバイスもシェアできるし。
ほぼ全員Macユーザだし。


フリーランサーも仕事から仕事へと旅する旅人みたいなものだし。ノマドワーク、って言葉が流行りつつあるとおり。

広い意味での旅人にとって心地いい家っていうコンセプトで再編集するだけで、またぐっと違った表情を持つ家になるだろうし、シェアオフィスとしてイベントルームを公開することでまた違った人の流れもできるだろう。


上記の構想は発想としてはかなりベタなんだけど、再編集の一例ってことで。
もちろん、コンセプトはみんなで話しあって決めることだし、それはこれから住む人によっても大きく変わってくるので、まれびとハウスはこれからこうなりますという意味ではないです。

まとめ

結局、何が言いたかったかというと、

こういうふうに自分の意志と発想が反映される空間があるというのは面白いことだよ、

ということ。


「もはやシェアは当たり前の時代」だと、今月号の「広告」は語っているのだけど、「シェアハウス」を「他人と空間を共有する場所」ではなく「自分と他人、複数の手で能動的に編集できる空間、かつ、空間によって自分も編集される場所」と捉えたら、かなり違った効能が見いだせるんじゃないだろうか、と思うのだ。


そういう見方を最初に提示したのが「まれびとハウス」だったらいいなー、と私は密かに願っている。


了。



おまけ

Amazonで「シェアハウス」で検索したらこの2冊が出てきたんだけど、これはシェアハウスじゃなくて同棲だと思う。。。
それにしても、BL業界でシェアハウスって今ならもっと出ていてもいいはずのテーマだと思うんだけど、腐女子には受けないのかなぁ。














分かってくれるから、好き?


昨日は高石くんによる「ラポールと身体知―凄腕ナンパ師による、瞬時に心に入り込むコミュニケーション講座 第5回」だった。

催眠術をかける時に使うテクニックに「ミラーリング」と「ペーシング」がある。

ミラーリングというのは、相手の姿勢に宿るそのときの相手のあり方ー気分だったり、思考だったりー
を自分に移し替える事であり、ペーシングはミラーリングによって同期した相手に自分の感覚を移し替える事である。

ミラーリングとペーシングを使えば、かなり深い程度で相手の考えていることを理解し、
かつ「この人は私のことを理解してくれる」と思わせることが可能である。

そう思わせることができれば、恋愛したい相手に好きになってもらうことができると、私は思っている。

「この人は私を分かってくれる」そう感じた相手を好きにならない人間がどこにいるだろうか。

もちろん分かってくれるだけではだめで、それプラス容姿とか、セクシャルな要素が皆無だと恋人には
なれないかもしれないが、
少なくとも「相手の自分への理解度」が恋愛の重要なファクターであることは間違いない。

ミラーリングとペーシングは、それを可能にする。技術によって自分を相手の理解者に「変える」ことができる。

そうすれば、他人は簡単に自分のことを好きになってくれるだろう。

しかし。

「理解してくれる」を拠点にした好意になんの意味があるだろうか。

分かってくれるから好き。

分かってくれるという安易な依存に取りいっても、どうしようもない気がする。
分かってくれなくても、合い入れなくても好き。そんな好意だって、世の中にはいっぱいある。

他人の「理解してほしい」という気持ちに取り入るなんて、それこそ卑怯者のすることのような気がする。

自分も「この人は私を分かってくれる」と思わせることで相手に自分を好きにさせるということを2,3回したことがあるが、
結局、それで相手に依存されたら途端にうっとおしくなったり、理解できる人でいられなくなった途端相手が離れて行ったりして、意味がないなと気づいてやめた。

理解者になることで相手に好意を抱いてもらうなんて、みじめだ。

「わかる」と言う事ですりよる事はできるが、そんなの、「わかる、わかるぅ」と相槌を打って、寂しいひと、こころの弱い人に取り入ろうとする宗教のセミナーと同じだ。
(行ったこと無いから想像でしかないけど。)

惨めな詐欺師は心がすさむ。それで好かれても、なんだか悲しい。

分かってくれる、と思わせることは技術によっていくらでもできるが、他者を理解する、という行為を、そんな安いものにしてはならない気がする。

Appendix

About me

小野美由紀

Author:小野美由紀
こちらにブログ移行しました→http://onomiyuki.com/

慶應大学仏文学科2010卒。
学生時代は「深夜特急」に憧れ世界一周22カ国等海外でフラフラ。一番の思い出はスペイン巡礼。
NPOカタリバ学生職員、道塾を経、現在はフリーライター。
「まれびとハウス」でのんびり料理する日々。
WEBサイトのライティングや仏語翻訳も請負います。
いつか巡礼について読み物を書きたいと思っています。

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