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原発と震災について語ることー「対岸の表現者」の自覚


京都で「原発絵本プロジェクト」として展示をしてきて痛感したこと。

それは、結局わたしたちは「対岸の表現者」でしかない、ということだ。

それでもなお、この問題を題材に表現しようとするかぎり、
わたしたちは「居かた」を決めなければならない。

対岸に居る、直接の被災者の方々にとって、
恥ずかしくない「振る舞いかた」を決めなければならない。

被害者のいる社会的事件を表現するということは、そういうことだ。

===



京都での原発絵本プロジェクトのイベントの最中、その場にいた人間の発言をめぐって、論争が巻き起こった。

その時、来場者の中に、福島と岩手出身のご夫婦がいて、
男性が、
「そもそも、この絵本は、あの事故がなかったら生まれなかったものでしょう?」という一言をおっしゃった。

私達を責めるつもりで発された言葉では全くない。

(前後の文脈を詳細に書かないと、この方の述べた言葉の真意がこのブログ上では正確には伝わり切らないのだが、この方の真摯な発言のおかげで、その場の論争がより深まり、心に残るものになったので、私はこのご夫婦にとても感謝しているという事だけは記しておく。)

しかし、彼のこの一言によって、
「このプロジェクトを通じて発表される作品は、原発事故を元に(さらに悪い言い方をすればネタに)して、制作されたものである」
という自明の事実が、あらためて胸に深く突き刺さった。

その事実は、どこまで行っても、壊れることのない堅い壁のように、わたしたち、そしてこの事件を元に何かを表現しようとする人たちの前に、絶対的に立ちはだかる。



===

絵本というのは、やわらかくて肌触りがいいメディアだけど、そのぶん、うわついてミーハーなメディアとも取られかねない。

言い換えると、事件をネタ(食い物)にしているように、見えかねない。

3.11以降、地震と原発事故に関する本は山ほど出ている。
事実を羅列したもの以外にも、タレントや著名人が、震災以降の生き方やメンタリティについて、心の豊かさみたいなのに結びつけてコメントを述べた、ゆるくふわっとした手触りの本を多く書店でみかける。

正直、なんでお前が書くねん、という感じの本もある。

私もそうかもしれない。

===



なぜ私がこのプロジェクトをやるのか。

根本にあるのは、
25年間生まれ育った地元・東京が、立派な放射能汚染区域になってしまった悲しみを、何らかの形で吐露したいという、極めて感情的な動機にすぎない。

東京が好き。

多くの人にとっては「来る場所」でも、私にとってはふるさとだ。

そこが、安心して住める場所ではなくなってしまった。
堅牢な大都市が、一気に日本で一番脆弱な街になってしまった。

一体、だれのせいなんだ。

この、「なんでこうなっちゃったんだ?」という憤りを表現したくて、絵本という媒体に、ぶつけている。

「騒音おばさん」のごとき、さみしさの吐露。



物干し場という舞台から、ふとん叩きと大声というインストゥルメントを使いただただ自分のさみしさを近所にむかって爆発的に表現していた、一時期テレビで話題だったあの彼女。
あんな熱心な表現者はそうはいまい。

あの悪魔的なパフォーマンスと、私がいま、原発絵本プロジェクトで、一枚一枚のパネルの上でやっていることは、エッセンス的には一緒である。

違うのは、騒音おばさんにとって、苦しみは自分ごとだったけど、私は、そうは言ってもまだ、原発事故とはやや対岸の存在であるということだ。

私の感じる、東京を傷つけられた悲しみは、フクシマの故郷を失った人の悲しみに比べたら、ペコちゃんキャンディのように、はかなく薄い味でしかないはずだ。



===

けっきょく被災した人以外は、「対岸の表現者」でしかない。

芸術でも文学でもなんでも、この事故を表現するということはそういうことだ。

被害者への共感がどれだけ強くても、その強さは他人には証明できない。
それがどう受け取られるか(売名行為なのか、真摯な共感なのか)は、周りにゆだねられる。

けっきょく、当事者以外の表現者は対岸の絵描きなのだ。

どこまで行っても。

対岸の火事に飛び込んで絵をかけるやつはいるか。

いない。

熱さを感じている気になるしかない。

自分の知っている熱さを想像しながら、外側から描くしかない。

それをするということは、
その事実と、被災した方々から向けられる目を自覚した上で、それでもなお、
表現者で在り続ける自分の「居かた」を決めることなのだ。



===

けっきょくは対岸の表現者でしかありません。

それでも、私にやらせてください、と宣言すること。

そしてその理由を自分の中でしっかりと見つめて、他人にできるかぎりの精度で伝えられるくらい、深く持たなければいけない。

どんなその理由がしょぼくても、情けなくても、こういう理由で、わたしはこれを表現します、という強い覚悟を持たないと、見る人には脆弱さが伝わってしまう。

耳障りのいいことは誰でも言える。でも、そこに覚悟がない表現は、表現ではない。

どんなに見た目がゆるふわでも、
芯だけは腹くくって、あり方を定めるしかない。

そうじゃないと、ただの恥ずかしい人だ。

事故について、どんな媒体にせよ、ブログにせよ、Twitterにせよ、表現するというのはそういうことなのだろう。

そんなことを考えたイベントだった。
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About me

小野美由紀

Author:小野美由紀
こちらにブログ移行しました→http://onomiyuki.com/

慶應大学仏文学科2010卒。
学生時代は「深夜特急」に憧れ世界一周22カ国等海外でフラフラ。一番の思い出はスペイン巡礼。
NPOカタリバ学生職員、道塾を経、現在はフリーライター。
「まれびとハウス」でのんびり料理する日々。
WEBサイトのライティングや仏語翻訳も請負います。
いつか巡礼について読み物を書きたいと思っています。

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